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ラルフ・ウォルド・エマソン エマソンの論文集「自己信頼」 (1/4)

「償い」はこちら 「精神の法則」はこちら

ラッセルコンウェルの朗読CD(全文収録)はこちらです。より詳しく学びたい方はぜひどうぞ!

訳:永間幸子・国分舞・樋口謙一郎

  

人は自らの星

誠実で完全な人をつくりうる魂は

すべての光を、すべての影響を、すべての運命を支配する

人の身に降りかかるものに、早すぎるものも遅すぎるものもない

われらの行いは、良いものも悪いものも、われらの天使

常にわれらに寄り添い歩く運命の影

ボーモントとフレッチャーによる「正直者の運命」へのエピローグ

自己信頼

-1-

 魂は常に、独創的な言葉から戒めを聞き取ります。言葉がもたらす感情は、言葉が内包するいかなる思想よりも価値のあるものです。 自分の思いを信じること、自分の心のなかの自分にとっての真実はすべての人にとっての真実だと信じること、それが才能なのです。あなたが心のなかで確信していることを語れば、そのときそれは普遍的なものになります。最も深いところにあるものが、ときが経てば表面に出てくるように、私たちの最初の思いは、最後の審判のラッパの合図とともに私たちの身に戻ってきます。

モーセやプラトン、ミルトンの最大の功績は、書物や伝統にとらわれずに、他人の考えではなく自分の思いを語ったことにあります。人は、自分の精神をよぎる内なる光のきらめきを見つけ、見つめていくべきなのです。しかし、人は気づかぬうちに、それが自分の思いであるという理由で、自分の思いを追いやってしまいます。 才能のこもった仕事には、私たちが捨ててしまっている自分自身の思いを見出すことができます。それらの思いは、ある種の威厳とともに私たちのもとに戻ってくるのです 。

-2-

 だれでも教育を受けているうちに、ある確信を持つようになります。その確信とはねたみは無知だということ、模倣は自殺も同然であること、良いか悪いかは別として分相応に自分自身を受け入れなければならないということ、そして、広い世界が善で満たされてはいるものの、わが身の養いとなるトウモロコシの種を得るためには、耕地として与えられた小さな土地を苦労して耕さなければならないということです。

人は自分の仕事に真心を込め、最善を尽くしたとき、安堵して晴れ晴れとした気分になります。そうでない言動から心の平穏を得ることはできません。 自分自身を信じなさい。神の摂理によって与えられた場所を受け入れなさい。偉人たちは常にそうしてきたのです。時代の精神に身を任せ、絶対的に信じるものを心に持つことを明かし、自らの手を動かして働き、自分の存在すべてを支配してきたのです。そしていま、私たちは人として、それと同じ超絶的運命を最高の精神で受け入れなければならないのです。片隅で守られている未成年者や病人たちではなく、革命を恐れて逃げ惑う卑怯者でもなく、導く者、救済する者、慈悲を施す者となって「全能者」の力に従い、「混沌」と「闇」のなかを突き進んでいかなければなりません。

 自然は、この問題について実に素晴らしい託宣を与えてくれます。それは子どもや赤ん坊、さらには獣に至るまで、その表情や態度を通じて与えられます。 その精神は完全で、その目は何にもとらわれておらず、顔をのぞきこむと、こちらが困惑させられてしまいます。幼児は、だれにも従いません。だれもが幼児に従おうと、たいてい赤ん坊ひとりに、大人4、5人が話しかけたり遊び相手をしたりするようになります。神は少年期や思春期、壮年期についても同様に、それぞれ独特の刺激と魅力を与えました。そしてそれを羨むべき優美なものにし、その主張が内発的なものである限り無視されることのないようにしたのです。

 少年は、自由気ままに、課せられた責任もなく、人や物事が過ぎていくのを片隅から眺めながら、いかにも少年らしく迅速かつ簡潔に判決を下し、それらの価値を良い、悪い、興味深い、ばかばかしい、口達者だ、厄介だなどと決め付けます。少年は、因果関係や利害関係に悩まされるようなことは決してなく、何ものにもとらわれない、純粋な裁きを下します。こちらから少年の機嫌をうかがわなければならず、少年が機嫌をうかがってきたりはしません。ところが、大人は自意識によって牢屋に閉じ込められているようなものです。一度でも自分の言動が喝采を浴びることがあれば、たちまち囚人となってしまうのです。大勢の共感や憎悪の視線に囲まれ、その人々の思惑を気にせずにはいられなくなってしまうのです。

 一個の人間であろうとする人は、体制に順応的であってはなりません。不滅の名声を得ようと思うなら、善の名目に妨げられることなく、それが善であるか否かを見極めなければなりません。究極的には、自らの精神の高潔さ以外に神聖なものはないのです。自分を自分自身に解放するのです。そうすれば世界中の賛同を得られるでしょう。善や悪は名目にすぎず、容易にどちらにでも変化します。唯一正しいのは自分の本質に即したものであり、唯一間違っていることは自分の本質に反するものです。

人は、すべての人が反対している状況においても、自分以外のものは名目にすぎない、はかないものだと思って振舞うべきです。背筋を伸ばして生き生きとし、あらゆる方法で赤裸々の真実を語るべきなのです。

 徳は、世間の考え方においては、当然のものというよりむしろ例外です。人がいて、そしてその人の徳があります。人々はいわゆる善行をします。勇気や慈悲を示す善行は、行進に毎日参加しないことの罪滅ぼしとしての罰金を支払うという具合に行われています。そのような行いは、この世に生きることに対する謝罪ないしは弁明としてなされています。彼らの徳とは罪の償いです。私は償いたいのではありません。ただ生きたいのです。私の生活は生活そのもののためにあるのであって、見世物にするためではありません。すばらしいとみなされる行為を私がするかしないかということは、私自身にとってはどうでもよいのです。私に備わるものがわずかでつまらないものだったとしても、私は確かに私なのです。

意味のない因習に従っていると、あなたの力が消え散ってしまいます。そして、あなたの時間が無駄になり、あなたの人格が発する効果もかすんでしまいます。そして言うまでもなく、あなたの本来の生命から、それだけの力が抜けてしまいます。自分の務めを果たすのです。そうすれば自分自身を強めることになります。

 牧師が自分の教会の優れている点を、説教の主題や内容に取りあげるのを耳にすることがありますが、そのような牧師はおかかえ弁護士のようなものです。それなのに、多くの人はそのような見解に与するのです。このような従属は、あらゆる点で自らを不実な存在にします。そのような人の言う真実とは、どれも本当の真実ではありません。