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ラルフ・ウォルド・エマソン エマソンの論文集「自己信頼」 (2/4)

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訳:永間幸子・国分舞・樋口謙一郎

  

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 私たちが自己信頼を躊躇するもう1つの要因は、一貫性です。すなわち、私たちの過去の言動を重んずる態度です。他人が私たちのこれまでの経緯を知るには、私たちの過去の行為から判断するほかなく、私たちも他人を失望させたくないからです。

 しかし、なぜあなたは後ろばかり振り返らなければならないのでしょうか。なぜ、公の場で述べたことと矛盾しないようにと、こうも記憶のしかばねを引きずりまわさなければならないのでしょうか。仮に自己矛盾に陥ったとして、だからどうだというのでしょうか。多くの判断力を備えた現在に過去を持ち出したりせずに、これからの新しい一日を生きること、これが賢明な人のたどるべき道であるように思われます。

 愚かな一貫性は、偏狭な政治家や哲学者や聖職者たちが崇拝するものです。一貫性と偉大な魂はまったく関係のないものです。いま、あなたが思っていることを力強い言葉で言いなさい。そして明日は、明日思うことを、今日言ったことと矛盾したとしても、再び力強い言葉で言いなさい。それで誤解されたとしても、それは悪いことでしょうか。ピタゴラスも誤解されました。ソクラテスも、イエスも、ルターも、コペルニクスも、ガリレオも、ニュートンも、純粋で賢明な精神はすべて誤解を受けたのです。偉大だからこそ、誤解されるのです。

 行動は千差万別でも、その行動がまさにそのときに正直で自然なものであれば、そこには何らかの一致点があるものです。ある1つの意志から生じているのならば、行動はたとえ似通って見えなくても、調和のとれたものになるでしょう。少し距離を置き、少し高い考えに立ってみると、その違いは見えなくなります。1つの傾向がそれらすべてを統合するのです。いかに立派な船も、その航海は無数の方向転換による曲折の連続です。しかし、その航路を離れたところから見ると、偏りは平均化されて真っ直ぐになっています。独立独歩で行動しなさい。そうすれば、あなたが独立独歩で行ったことが、いまのあなたの正しさを認めてくれます。

名誉が私たちにとって尊いのは、それが1日限りのものではないからです。名誉は常に古くから積み重ねてきた徳です。私たちが名誉を愛し、敬意を払うのは、それが愛や敬意を得るための罠ではなく、それ自体に依拠し、それ自体に起源を持つゆえに、古くからの汚れなき正統性を備えているからなのです。

 人が自分の価値をわかるようになりますように。そうすれば、物事を自分の足元にとどめておくことができます。人が、自分のために存在している世界にありながら、覗き見をしたり盗みをしたり、こそこそと人目を恐れて生活をすることがありませんように。巷の人は、自らに何らの価値も見出せず、塔を築き、神の大理石像を彫った力ほどの価値が自分にあることに気づかず、これらの塔や彫刻を見ると自分が貧しく思えてしまうのです。彼にとっては、城や彫像や高価な書物は、自分には縁のない、近寄りがたい雰囲気があるのです。しかし実は、それらはすべてその人のもので、その人の目にとまりたいと切望し、その人が能力を発揮して手に入れてくれることを求めているのです。

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 読書をすることは、物乞いやへつらいも同然です。歴史において、私たちの想像は私たちを欺いています。王国と統治、権力と財産は、小さな家に住み、平凡な仕事を日々こなしている庶民に比べると華やかなものです。しかし、人生に関する事柄はどちらにとっても同じであり、双方の総計は同じなのです。

 あらゆる独創的な行為が備える磁力は、自己信頼の理由を探求してみると説明がつきます。「信頼される人々」とはだれのことでしょうか。普遍的な信頼の基礎となる本来の「自己」とは何でしょうか。この問いかけは、才能、徳、命の本質であり、私たちが「自発性」や「本能」と呼ぶ、あの根源へと私たちを導きます。私たちはこの根本的な英知を「直感」と名づけます。これに対して、後から受ける教えは、すべて人から授けられるものです。その深遠な力のなかに、分析しつくすことのできない究極の事実であるその力のなかに、すべてのものは共通の起源を見出すのです。

私たちは物事を存在させる命を最初は共有するものの、後になるとそれらの物事を自然のなかの現象としてとらえてしまい、その根源を共有していたことを忘れてしまうのです。しかし、ここにこそ行動と思いの泉があるのです。人はだれでも、自分の精神における意図的な行為と無意識の悟りを区別します。そして自分の無意識の悟りの方を完全に信用すべきであることを知っています。思慮のない人々は、他人の意見の表明と同様に、否、それ以上に、悟りのあらわれを簡単に否定します。そのような人々は悟りと観念を区別しないからです。彼らは、私があれやこれを選択していると思っているのです。しかし、悟りとは気まぐれなものではなく、宿命的なものなのです。

 魂と神聖な精神の関係はとても純粋なものであるため、助けになるものを介在させようとすることは冒涜になります。神が語るときにはひとつのことではなく、すべてのことを語るはずです。そして世界を神の言葉で満たし、光、自然、時間、魂を、その思想の中心から放射し、紀元を新たにし、全体を新たに創造するでしょう。精神が清純で神聖な知恵を受け入れるときには、古いものは常に影をひそめます。精神はいまを生きており、過去と未来を現在に吸収するのです。すべての物事は、一様に、その精神との繋がりによって神聖なものとなるのです。

 私の家の窓辺に咲くバラは、昔のバラや、良いバラのことを気に留めたりはしません。バラは自らあるがままに咲いており、今日、神とともに存在しているのです。それらに時間は関係ありません。ただバラがあるだけです。その存在のすべての瞬間において完全なのです。芽が出る前にも、バラの命はあますところなく活動しています。バラは満開となってもバラを超えるものではなく、葉が落ちて根となってもバラでなくなるわけではありません。どの瞬間でも同じように、バラの本質は満たされていて、バラも自然を満足させています。しかし人は、現在に生きるのではなく、振り返って過去を嘆き、未来を予見するとなるとこそこそするのです。人は、自らも時間を超越して、いまこのときに自然とともに生きなければ、幸福になることも、強くなることもできません。

 このことは、まったく明らかなことです。しかし、いかに強い知性の持ち主でも、神がダヴィデ、エレミア、パウロといった人物の言葉で話さないと、自ら神の声を聞こうとしないのです。私たちは、わずかな教え、わずかな伝記だけをありがたがっているばかりではいけません。私たちが本当の生き方をするなら、本当のことがわかるはずです。強い人が強く生きるのは、弱い人が弱々しくあるのと同じように容易なことなのです。私たちが新しい悟りを得たなら、喜んで記憶のなかの宝物を古いがらくたと見切って捨ててしまうでしょう。

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 さて、この主題の究極の真実は、まだ触れられずに残っています。おそらく語ることはできないでしょう。私たちが話すことはすべて、直感したことをはるかかなたから思い出していることだからです。その考えに、いま可能な限り近づいて話すとすれば、それはこのようなことです。善があなたの身近にあるとき、あなたの内面に命を感じるとき、それは既知の、見慣れた方法によってそうなっているのではありません。そのあらわれかた、思い、善はまったく異質で新しいものであるはずです。そのとき、前例や経験は寄せ付けられません。そのあらわれかたは人に由来します。

 いま生きているものだけが役に立ち、かつて生きたものは無用のものです。力は、休んだ瞬間に途絶えてしまいます。力は過去から新しい状態へ移行するその瞬間、深い淵を乗り越えるとき、目標に向かってつき進むときに生まれます。世間が敵視するひとつの事実、それは魂が成る、ということです。それは、過去の価値を永久に貶め、すべての富を貧困に変え、すべての名声を恥辱に変え、聖者を悪党と同一視します。自己信頼について述べるのは、魂が存在している限り、力が存在するからです。そして、その力は、自信ではなく活力を伴うものなのです。徳とは「究極」のものであり、原理に柔軟に順応できる人や集団は、自然の法則によって、そうでないすべての都市、国家、王、金持ち、詩人を圧倒し、支配するのです。

 これは、究極の事実です。すべてのものが永遠に神聖な「ひとつ」になるということです。自立は「至高の根源」の特質ですさまよわないことです。神聖な事実を端的に語り、それによって、押し入ってくる人々や書物や制度を圧倒し、驚かすのです。

 私たちは1人で進むべきです。私は、どんな説教よりも、礼拝が始まる前の静かな教会が好きです。だれもが境内や内陣の傍らで、はるかかなたにいるような、実に涼やかで、清らかな表情をしています。あのように、常に腰を落ち着かせていましょう。友人や妻や父や子どもが私たちの家の暖炉を囲んでいるからといって、あるいは彼らに同じ血が通っていると言われているからといって、彼らの欠点まで受け入れることはありません。すべての人に私の血が流れ、私にはすべての人の血が流れています。だからといって、私はたとえそのことで恥を感じることになっても、彼らの短気や愚かさを受け入れるつもりはありません。ただし、その孤独は機械的なものであってはならず、精神的なもの、つまり、高尚なものであるべきです。世間がすべて共謀して、まったく些細なことであなたを悩ませているように感じられることがあるでしょう。

友人、顧客、子ども、病い、恐れ、欲求、慈善が、すべて一度にあなたの部屋をノックして言うでしょう。「私たちの方へおいで」と。それでも、そのままでいることです。その混乱のなかへ出て行くべきではありません。人々が持つ自分を悩まそうとする力は、実は私自身が愚かな好奇心によって与えているものなのです。

 いますぐに服従と信仰の聖域に立ち入ることができないとしても、せめて誘惑に抵抗することです。このことは真実を語ることによって成し遂げられます。偽りのもてなしや偽りの愛情をやめるのです。欺き欺かれている人々の期待に応えて生きるのはもうやめるのです。彼らに言いなさい。